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  • 棚 田(たなだ)

    2008/11/03

    体験

    秋も深まり、収穫の季節を迎えている。車窓から田んぼを見ていると、子どもの頃の農作業の経験を想いだし、懐かしい気持ちにさせられる。これも子どもの頃の想い出のひとつ ...

  • 浅間山

    2008/10/26

    散策・旅行

    夏の浅間山(新幹線あさまの車窓から)長野新幹線ができる前、東京方面から新潟県の上越方面にいくには特急列車でおよそ4時間半くらいかかったものである。それが長野オリ ...

  • 妙高山、仙丈ヶ岳、高尾山

    2008/10/12

    体験

    秋も深まってきた。山歩きは心身共にリフレッシュさせてくれるので心地よい。登山といわれて思い出すのは妙高山、仙丈ヶ岳くらいだろうか。あまり経験はないのだが、少ない ...

  • 秋の訪れ

    2008/10/05

    日記

    暑さからも解放され、この頃は過ごしやすくなった。ことしは秋の気配が例年より早いような気がしている。先日、散歩していて、道ばたに咲いていた彼岸花を見つけた。夜は、 ...

  • 体験
棚 田(たなだ)

秋も深まり、収穫の季節を迎えている。車窓から田んぼを見ていると、子どもの頃の農作業の経験を想いだし、懐かしい気持ちにさせられる。

 

 

これも子どもの頃の想い出のひとつなのだが、その当時は我が家は稲作をしていた。とはいっても、山の中の田んぼである。棚田(たなだ)と呼ばれる山の斜面を切り開いたもので、決して広くはなかった。

 

しかし、その数たるやとても多い。仕事はすべて手作業であった。六月上旬の田植えのときは、家族総動員で近所の方の助けも いただいて行うのである。また、秋の稲刈りにしても同じ、近所どうし助け合って、きょうはこの家、明日はこの家と順繰りに作業を行うのである。

 

今と違い、その当時はまだ耕耘機を所有している農家は少なく、すべて人手をかけて、田の畔つくりからしろかき、苗代作り、田植え、田の草取り、稲刈りなどを行なっていた。結(え)と呼ばれた集落の人々の助け合いの中で、おいしい米作りをしていたのである。山の斜面の田んぼなので、機械も入りにくかったのだ。また、田んぼは水周りの管理が重要で、農業用水の配分にも気を遣った。

 

山間部の水田は、平野部の田んぼと違って深かった。腰まである長靴を履いて田んぼに入ると膝上まで泥につかるというのが当たり前であった。稲は、柔らかい泥に支えられて根っこをちゃんと張れるので、倒れにくく、じょうぶに育ち、結果としておいしいお米を収穫できるのである。

 

子どもの頃は、よく田植えや稲刈りを手伝ったものだ。当時の小学校には、田植え休み、稲刈り休みという学校の授業が休みの期間があった。それぞれ3-4日程度ではあったが。というのも、この時期は、前に書いたように人手が絶対に必要なのである。天候や稲の育ち具合からいっせいに行う必要かあったのだ。

 

稲刈りは、刈り取った稲を束ねて縛り、それを「はさば」(乾し場)と呼ばれるところに運び、自然乾燥させる。風通しの良い高台にある杉の木などに連ねて稲わらでできた縄で稲束を掛けるところを作っておき、そこに刈り取った稲束を掛けて4-7日間くらい乾燥させるのである。

 

そして、稲穂の乾燥度合いを確認しながら、適度な状態にまで乾燥したら農家の作業場に運び、ようやく脱穀の作業となるのである。

 

刈り取った稲束を運ぶ作業は、背中に背負って田んぼから高台のはさばまで運ぶ。子どものころは、この作業が結構たいへんだった。幅50センチメートル程度の山道(急な登りの坂道が多い)を20分くらいかけて運ぶのである。それも何十回となく往復する。

 

おそらく、平野部の水田であれば、一輪車やリヤカーを使って運んだことだろうが、山の斜面ではそうはいかない。すべて人手にたよらざるを得ないのである。

 

稲を乾燥させるためのはさかけの作業も、3-4メートルくらいの高さののところにいる人に向けて稲束を一束ずつ投げあげる、そしてその位置の縄にまたがせてもらうのだ。乾燥した稲束を集めて作業場へ運ぶのも人手で、背中に背負って高台のはさばから作業場まで運ぶ。

 

いま考えると、当時はたいへんな作業をよくやっていたとおもう。このような苦労を積み重ねておいしいお米ができるのである。いまは、農村の機械化も進み、狭い棚田も耕地整理されて広くなり、作業性も良くなったときいている。しかし、農家の手塩にかけて育てたおいしいお米には、多くの苦労と努力が込められているのだ、ということを知ってほしいと願っている。

 

(2008-11-3)

 

 

浅間山


夏の浅間山 (新幹線あさまの車窓から)

 

長野新幹線ができる前、東京方面から新潟県の上越方面にいくには特急列車でおよそ4時間半くらいかかったものである。それが長野オリンピック開業と同時に新幹線が長野まで開通し、東京長野間は三時間から一時間半ちょっとに短縮された。乗り継ぎの普通列車の時間を含めても3時間半くらいでいけるようになった。

 

車窓から見る景色は季節によって変化するが、ときどき、「ああ、この風景を写真に収められたらいいなあ」とおもうような場面がいくつかある。私の場合、そのひとつが浅間山なのである。

 

新幹線が開通する前は、信越線で横川軽井沢間は電気機関車を増結して山登りをしていた。登りきったところに軽井沢があり、そこから1-2駅、中軽井沢、信濃追分あたりの車窓から浅間山が良く見えたものである。ちょうど、上野駅から列車に乗って2時間くらいのところなのだが、信州の高原地帯を通過するときの景色なのである。列車で帰省するときに必ず通るルートなので、何回となく経験していたものだ。

 

新幹線ができてからは、信越線のこの区間は「しなの鉄道」という第三セクターに移管され、私のような単に通過する者にとっては新幹線を利用するしかなく、じっくり浅間山を見ている余裕はなくなり、あっという間に通り過ぎてしまう風景となった。

 

それでも、浅間山が見えると、故郷への道のりの半分は過ぎたなというマイルストンを確認するのである。

 


冬の浅間山 (新幹線あさまの車窓から)

 

(2008-10-26)

 

 

不要電子メールとその対処法

パソコン通信といわれる時代、ダイヤルアップ接続の時代、そしてブロードバンド接続の時代にいたるまで、何年も、電子メールを利用し、お世話になっているが、ここ一、二年で急に不要な電子メール、いわゆるスパムメール、迷惑メールとよばれる類のものが増えてきた。おそらく、私だけではないのではないかなとおもっている。

 

これまでの経験から、急に増え出す時期があることがわかった。それは、夏休みの終わる8月後半である。なぜ、8月の終わりなのかは、よくわからないが。

 

あくまでも、私が経験した場合であるが、最初は一日に2通程度、 3か月後くらいになると一日10通程度、6か月後くらいだと、一日20-30通程度にふくれあがる。内容は様々だが、決して気持ちのいいものではない。最初のうちは内容をみて消去していたのであるが、だんだん追いつかなくなってきた。

 

時間の浪費を感ずるようになった。

 

そこで、プロバイダのお世話になることにした。

 

私が採った対策は、まず、不要なメールの発信者のIPアドレスを調査し、記録することであった。はじめからすべてのメールを調べる必要はない。最近の1か月くらいをまず調べる。そして、最初の3けたないし6けたの部分を、拒否するメールとして登録するのである。

 

例えば、123.456.789.012 のようであれば、IPアドレスの123.456. で始まるメールの受信を拒否し、いったんプロバイダの迷惑メールボックス受信箱に保管するように処置してもらうのである。

 

また、もしIPアドレスの最初の部分 123. を調べて、必要のない国からの場合、123. で始まるメールの受信をすべて拒否するように登録するのである。

 

拒否したメールは、いったんプロバイダの迷惑メールボックス受信箱に蓄えられている。

 

最初のうちは、登録は面倒な作業であるが、こうしておかないとますます増えるばかりで、減る気配はまったく感じられないのである。あくまでも私の場合であるが、現在は一週間(7日間)で20通くらいと、受信箱に届く不要電子メールの数は減った。

 

プロバイダの迷惑メールボックス受信箱は、それと引きかえに、一日40-50通、一週間で 250-300通の不要メールを受信している。一週間に一回、このプロバイダの迷惑メールボックス受信箱にアクセスし、タイトルと発信者のみをみて、削除するのである。

 

ごくまれに、必要なメールがプロバイダの迷惑メールボックス受信箱に混じってしまっていることがあった。そんなときは、そのメールのみを復活させれば良い。

 

あわせて、プロバイダにはメールのウィルスチェックもお願いしている。ほとんどの場合、この段階でメールの添付ファイルにウィルスが含まれている場合は削除され、受信箱には安全に配信されるのだが、ときどき、抜けがある場合がある。なので、ウィルス対策ソフトは必須である。

 

 

私の場合、前述のIPアドレスでの限定と合わせて対策していたのだか、一度、「トロイの木馬」を含む添付ファイル付きのメールが受信箱に入ってきたことがあった。ウィルス対策ソフトで処理し、ことなきを得たのである。

 

(2008-10-25)

 

 

  • 体験
妙高山、仙丈ヶ岳、高尾山

秋も深まってきた。山歩きは心身共にリフレッシュさせてくれるので心地よい。

 

登山といわれて思い出すのは妙高山、仙丈ヶ岳くらいだろうか。あまり経験はないのだが、少ない分印象に残っている。山頂からみる周囲の眺望はすばらしく、また、それをみたいがために、わざわざ山登りするのだ。

 

妙高山は、新潟県の南部にある2446メートルの休火山であるが、小学校6年の林間学校のときだったか、必ず登る山として記憶に残っている。燕温泉あたりに宿舎をとり、夜明け前に宿舎を出て、懐中電灯を頼りにクラスの一行は山頂を目指すのである。そのうちに夜が明けるので、山頂に着く頃にはすっかり明るくなっている。日の出を山頂で見られれば幸運だ。

 

遠い昔のことなので、あいまいな部分も多いが、この登山が、最初の経験であった。

 

 

就職して7-8年たった頃に、誘われて、南アルプスの仙丈ヶ岳へ登ったことがある。10月か11月の秋の日だった。長野県側から入り、二泊三日の日程で入山・下山を経験した。雨と霧の天候だったが、途中で晴れわたり、二日目に頂上に立てた。途中、きれいな高山植物に心を奪われ、植生の移り変わりを目の当たりにし、おおげさにいえば自然の偉大さを感じていた。

 

頂上からの眺めはまたすばらしい。仙丈ヶ岳は3000メートル級の山である。頂上付近には、しばらくとどまりたかったが、落雷などの危険もないとはいえないので、ある意味では怖かった。30分くらいで引き上げたように覚えている。

 

二日間の宿はいわゆる野宿、適当な空間を探して寝袋に入り寝るというもので、いままで私が経験した本格的な登山はこれが唯一である。

 

東京の北西部にある高尾山には、一度、日帰りで、息子と行ったことがある。こちらは、登山というよりは山歩き、もしくはハイキングといった感覚であったが、それでも山の中を歩くことには変わりなく、自然とのふれあい、を楽しみ、山頂からの眺めを楽しむには十分であった。

 

いつか、時間をつくってまた山登り、山歩きをしてみたいとおもっている。

 

(2008-10-12)

 

 

  • 日記
秋の訪れ

暑さからも解放され、この頃は過ごしやすくなった。ことしは秋の気配が例年より早いような気がしている。先日、散歩していて、道ばたに咲いていた彼岸花を見つけた。

 

 

夜は、近くの草むらから虫の音が聞こえてくる。駅から自転車で帰宅途中、携帯プレイヤーで音楽を聴いているが、虫の音は音楽に重なるほど、音楽の一部ではないかと間違うほど大きい。

 

子どものころは、天体に興味があって、よく星を見ていた。最近は、空も東京近郊ではかすみ、星がよくみえないこともあって、ほとんど見る機会がない...。

 

いま、南西の空には、木星(ジュピター)が見える。星空のどの恒星よりも明るい。これをみて思い出したことがある。1994年にあった木星への彗星の衝突は、1000年に一度とのこと、悠久の時の流れの中に生きている自分たちを感じるひとときである。

 

(2008-10-5)