- 投稿 2008/11/03更新 2018/01/07
- 体験
秋も深まり、収穫の季節を迎えている。車窓から田んぼを見ていると、子どもの頃の農作業の経験を想いだし、懐かしい気持ちにさせられる。
これも子どもの頃の想い出のひとつなのだが、その当時は我が家は稲作をしていた。とはいっても、山の中の田んぼである。棚田(たなだ)と呼ばれる山の斜面を切り開いたもので、決して広くはなかった。
しかし、その数たるやとても多い。仕事はすべて手作業であった。六月上旬の田植えのときは、家族総動員で近所の方の助けも いただいて行うのである。また、秋の稲刈りにしても同じ、近所どうし助け合って、きょうはこの家、明日はこの家と順繰りに作業を行うのである。
今と違い、その当時はまだ耕耘機を所有している農家は少なく、すべて人手をかけて、田の畔つくりからしろかき、苗代作り、田植え、田の草取り、稲刈りなどを行なっていた。結(え)と呼ばれた集落の人々の助け合いの中で、おいしい米作りをしていたのである。山の斜面の田んぼなので、機械も入りにくかったのだ。また、田んぼは水周りの管理が重要で、農業用水の配分にも気を遣った。
山間部の水田は、平野部の田んぼと違って深かった。腰まである長靴を履いて田んぼに入ると膝上まで泥につかるというのが当たり前であった。稲は、柔らかい泥に支えられて根っこをちゃんと張れるので、倒れにくく、じょうぶに育ち、結果としておいしいお米を収穫できるのである。
子どもの頃は、よく田植えや稲刈りを手伝ったものだ。当時の小学校には、田植え休み、稲刈り休みという学校の授業が休みの期間があった。それぞれ3-4日程度ではあったが。というのも、この時期は、前に書いたように人手が絶対に必要なのである。天候や稲の育ち具合からいっせいに行う必要かあったのだ。
稲刈りは、刈り取った稲を束ねて縛り、それを「はさば」(乾し場)と呼ばれるところに運び、自然乾燥させる。風通しの良い高台にある杉の木などに連ねて稲わらでできた縄で稲束を掛けるところを作っておき、そこに刈り取った稲束を掛けて4-7日間くらい乾燥させるのである。
そして、稲穂の乾燥度合いを確認しながら、適度な状態にまで乾燥したら農家の作業場に運び、ようやく脱穀の作業となるのである。
刈り取った稲束を運ぶ作業は、背中に背負って田んぼから高台のはさばまで運ぶ。子どものころは、この作業が結構たいへんだった。幅50センチメートル程度の山道(急な登りの坂道が多い)を20分くらいかけて運ぶのである。それも何十回となく往復する。
おそらく、平野部の水田であれば、一輪車やリヤカーを使って運んだことだろうが、山の斜面ではそうはいかない。すべて人手にたよらざるを得ないのである。
稲を乾燥させるためのはさかけの作業も、3-4メートルくらいの高さののところにいる人に向けて稲束を一束ずつ投げあげる、そしてその位置の縄にまたがせてもらうのだ。乾燥した稲束を集めて作業場へ運ぶのも人手で、背中に背負って高台のはさばから作業場まで運ぶ。
いま考えると、当時はたいへんな作業をよくやっていたとおもう。このような苦労を積み重ねておいしいお米ができるのである。いまは、農村の機械化も進み、狭い棚田も耕地整理されて広くなり、作業性も良くなったときいている。しかし、農家の手塩にかけて育てたおいしいお米には、多くの苦労と努力が込められているのだ、ということを知ってほしいと願っている。
(2008-11-3)