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北陸新幹線と「ほくほく線」

関東地方から新潟県の上越・妙高方面へは、鉄道でいくとしたら、よく利用されるルートとしては、主に2とおりの行き方がある。ひとつは、東京から長野まで新幹線、そこから在来線の信越本線に乗り換えるルート、もうひとつは、東京から越後湯沢まで新幹線、そこから直江津までほくほく線経由で特急でいくルートである。

 

ことしの8月のある一日のことであるが、上越方面までいってきた。ふだんは、前者のルートで行くのがほとんどなのだが、今回は、駅でレンタカーを借りるということもあって、後者のルートで廻ったのであった。

 

自宅を出発して、新幹線と特急を乗り継いで行ったのだが、東京から直江津までは、いまでは、およそ2時間ほどでいけるようになった。直江津は、レンタカーの起点であって、そこからあちこちを廻るためであった。

 

どこもそうであろうが、都会と違って、田舎では、列車の線路から離れると、頼みの交通機関は、車かバスとなる。バスは、もともと本数が少ないため、時間的にはなかなか思い通りにならない。動き廻るためには、車が便利なものとなる。

 

今回の旅は、お墓参りが主目的であった。

新幹線で東京から越後湯沢までいき、そこで、「ほくほく線」の特急に乗り換える。

 

ほくほく線に乗り入れる特急「はくたか」、越後湯沢駅にて。

 

ほくほく線は、私がまだ、高校生のころは、なかった。だが、当時は、基礎工事が既に行われていたのだ。そして橋脚の工事中の跡か残っていた。将来、ここに鉄道がとおるよ、と聞かされたものであった。

 

その昔、直江津の隣の黒井と浦川原との間に。「頚城鉄道」という軽便鉄道が運行されていたと聞いている。それが廃線となり、バスに替わったわけであるが、そのほくほく線の基礎工事は、ちょうど頚城鉄道の廃線跡に沿って、建設されていた。

 

だが、予算の関係からなのか、工事は遅々として進まず、かなり長い間、工事の途中段階で放置されていたようだ。

 

やがて、当時の国鉄が分割・民営化され、同時に第三セクターなる事業母体があらわれ、「ほくほく線」は建設が再開されたようであった。

 

「ほくほく線」のルートは、単線であるが、北陸地方への時間を短縮させるのに好都合なものである。このルートが開通するまでは、長岡乗り換えの信越線経由というのが、一般的だった。だが、「ほくほく線」が゛開通してからは、ここに特急を走らせることにより、一気に時間短縮がはかれるようになったのだ。

 

今回、直江津まで行くのに、越後湯沢で新幹線からほくほく線に乗り換えたのだが、トンネルが多いことには、閉口した。特急にのると、越後湯沢と直江津の間はノンストップなので、ものすごいスピードでトンネル内を通過していく。気圧の変化が激しいので、耳がいたくなってしまったのであった。

 

浦川原を過ぎたあたりからは、田園風景がひろがる。見慣れた田舎の景色となった。

 

さて、直江津で、レンタカーを借りて、南に進路をとった。

途中、工事中である北陸新幹線を横切った。

 

北陸新幹線の高架。上越市内、国道18号線バイパスより。

 

北陸新幹線は、2016年の開業をめざしているとのことであるが、もうかなりの部分が完成しており、ことし2010年には、新潟県内の部分にレールを敷設する工事に入るとのことを聞いた。高架は、ほぼ完成しており、連続しているとのことであった。

 

もし、北陸新幹線が完成すると、東京から乗り換えなしで、新潟県内に入れることになる。そうすれば、もっと便利になることだろう。

 

ひとつの心配は、新潟県内にできる駅は、新幹線の通過駅となってしまわないか、ということである。せっかく、できるのだから、十分な本数を停車させてほしい、そして、上越・妙高の地域の活性化に寄与してほしいとおもう。

 

車で移動しながら、北陸新幹線を横目に見て、そんなようなことを考えていた。

 

(2010-8-18)

 

  • 特集
「小説『坊っちゃん』誕生秘話」

文豪・夏目漱石の名作である「坊っちゃん」。その中でもっとも魅せられ、生き生きとした主人公の「おれ」は、どのようにして生まれたのか。漱石は、この作品を通じて、読者に何を語り、表現しようとしたのか。

 

これらの一端を解き明かすべく、このほど一冊の本が出版された。著者は、我々の母校で教鞭をとられたこともあるK先生である。

 

我々が高校2年のときに、社会科の世界史をユニークな方法で教えていただいたK先生のことは、以前に紹介させていただいた (「高校「世界史」の授業」を参照下さい。) が、人の縁とは不思議なものである。K先生は、我々の母校で教鞭をとられた後、新潟県内の高校の学校長、関根学園の校長などを歴任された。

 

K先生が関根学園校長として赴任していたある日、早稲田の2年の時に「坊っちゃんのモデルは関根萬司であり、それを漱石に紹介したのは新潟商業高校を出た堀川三四郎である」という本を読まれたということを突然思いだされたそうだ。両校の校長を歴任して縁がある自分が解明しなければならないという天命を感じられたそうである。そして、今日まで調査研究された集大成が、この「小説『坊っちゃん』誕生秘話」である。

 

 

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小説『坊っちゃん』誕生秘話

モデルとされた関根萬司と堀川三四郎の足跡をたどり、さまざまな仮説をたて、検証していく貴重な文学研究の書である。たとえば、仮説として、

 

・夏目金之助は、堀川三四郎が角田の中学校に赴任する時から辞任した後まで世話をしていた

・松山に着いた「おれ」が「赤シャツ」と「山嵐」の対立の間で揺れ動く描写は、堀川三四郎が角田の中学校の紛争で経験したこと

・婆や「清」は佐藤亀世からの創出

・画学の吉川先生は視学官野田藤馬

・マドンナは石川絢(あや)(三四郎夫人)

・「うらなり」のモデルも●●●

・「坊っちゃん」という題名は関根萬司のニックネーム

 

などが紹介されている。

我々にはなじみの地名などもででくるので懐かしくなる。

ご興味おありの方は、書店またはこちらで入手できる。

 

(2009-9-19)

 

 

勝山一義「小説『坊っちゃん』誕生秘話」

文芸社 (新宿区新宿1-10-1 / 03-5359-2299)

 

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COMMENT:
AUTHOR: 関根則男
EMAIL: spb25ny9@festa.ocn.ne.jp
IP: 210.20.13.133
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/lax3140/33033332.html
DATE: 09/27/2009 22:03:34
今晩は、私のプログ記事「我が先祖は「坊っちゃん」のモデル?・・関根萬司」にトラックバックいただきありがとうございました。K先生のお知り合いの方でいらっしゃったのですね。K先生何度か私の実家を訪問いただいたようです。該書籍の中で小生の手紙の内容を「○○○○氏の研究」として掲載されています。(無断ですけど・・・笑)


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COMMENT:
AUTHOR: ふる
EMAIL: m@m
IP: 221.119.0.185
URL:
DATE: 09/29/2009 07:52:23
ご来訪いただきありがとうございます。K先生のご出身のY高校の東京地区同窓会の会長さんから、今回の著書のご紹介をいただきましたので、本サイトにて簡単に紹介させていただきました。

 

ぶな林と「ふるさと」

先日の読売新聞(2008年9月13日)に、トレッキングルート「信越トレイル」が開通したという記事がでていた。

 

新潟県と長野県の県境にある関田山脈の稜線を、斑尾山から牧峠を経て天水山に抜ける全長80kmのコースだそうである。標高1000メートル前後の稜線づたいに、いくつもの峠を通過する。掲載された写真には、ぶな林の中を山歩きする人々の楽しそうな姿が紹介されていた。

 

ぶな林には、想い出がある。ちょうどこのコースの途中に、関田峠がある。その新潟県側では、冬にたいへんたくさんの雪が積もる。6メートルにも達することがあると聞いたことがある。

 

私がこどものころ、小学校の遠足でこの関田峠の近くのぶな林に行ったことがある。水源地が、林の中にあり、冷たい水が湧き出ている。指を入れるととても冷たい、こごえそうな感触をはっきりと覚えている。

 

そんなふるさとのぶな林を想いだしてしまった。

 

いま、関田峠を少し下ったところは、牧場として開拓され、光が原高原として知られている。「浅間山荘」事件を扱った映画のロケ地でもある。そこからは、日本海が、また天候にもよるが佐渡が見える。眺めは最高である。冬は雪のため、閉鎖されてしまうが、夏は多くの人々が訪れる。

 

ぶな林の中に、キャンプ場やロッジがあり、自然の豊かさを実感できるのだ。私もなかなかいけないが、ぜひ一度、見て足を運んでほしい場所である。

 

関田峠の付近より、光が原高原、遠く日本海を望む。近くにはぶなの木が見える。(このあたりも冬は雪に閉ざされる。)

 

(2008-9-23)

 

 

久しぶりの家族旅行

佐渡金山で露頭に鉱脈がでている道遊の割戸(どうゆうのわりと)。
真夏だというのに、金山の内部は10℃以下の寒さであった。

 

 

昨年の夏、久しぶりに家族揃って旅行をした。揃って遠出することは滅多になく、子どもたちが小さい頃を除けば、それまで何年もなかったのたが、たまたま、勤続何年かのイベントで有期の旅行券をいただけたのである。これを使用させてもらって、家族の希望もあり、佐渡島へと出かけた。

 

佐渡は、交通の便を考えないと自由に回れない。良き交替運転者の妻と二人の息子を得て、自家用車で島内を回ることができた。

 

一番喜んだのは我が家の一番下の息子であった。直江津港からカーフェリーに乗るのもはじめてだし、「本土から離れる」のもはじめてで、うれしそうだった。私自身も、新潟県生まれでありながら、佐渡へは一度もいったことがなかったので、よい機会を得たとおもっている。

 

佐渡では、小木港から入り、最初の晩は相川町に宿泊、翌日、佐渡金山の跡見学と、砂金採りの体験をし、さらにトキの保護をしている公園、郷土資料館を見て回った。あの話題にのぼったジェンキンズさんにも資料館で会うことができた。

 

旅館でのひとときもまた楽しいものだ。窓からの景色も海鮮料理も想い出に残るものであった。

 

佐渡の歴史、人情に触れ、喜ぶ家族の顔を見て、この時に来られて良かったと思っている。

 

子どもたちもひとり、ふたりと独立し、それぞれ巣立っていく。今後おそらく、このメンバーが家族旅行で揃うことは滅多にないだろうとおもっているが、願わくばいつかまた揃って旅行をしたいものだ。

 

(2008-2-24)

 

 

佐渡で困ったことのひとつは、携帯電話の一部が通じない地域があったことです。

PHSは、相川町、両津の付近ではつながりましたが、その他ではまったくだめでした。

Docomoとauは、ひとまずOKのようでした。

 

(2008-12-16 追記)