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  • 2008/11/03

    体験

    秋も深まり、収穫の季節を迎えている。車窓から田んぼを見ていると、子どもの頃の農作業の経験を想いだし、懐かしい気持ちにさせられる。これも子どもの頃の想い出のひとつ...

  • 2008/09/23

    散策・旅行

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  • 2008/09/15

    日記

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  • 2008/09/15

    体験

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  • 2008/09/15

    体験

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  • 体験
棚 田(たなだ)

秋も深まり、収穫の季節を迎えている。車窓から田んぼを見ていると、子どもの頃の農作業の経験を想いだし、懐かしい気持ちにさせられる。

 

 

これも子どもの頃の想い出のひとつなのだが、その当時は我が家は稲作をしていた。とはいっても、山の中の田んぼである。棚田(たなだ)と呼ばれる山の斜面を切り開いたもので、決して広くはなかった。

 

しかし、その数たるやとても多い。仕事はすべて手作業であった。六月上旬の田植えのときは、家族総動員で近所の方の助けも いただいて行うのである。また、秋の稲刈りにしても同じ、近所どうし助け合って、きょうはこの家、明日はこの家と順繰りに作業を行うのである。

 

今と違い、その当時はまだ耕耘機を所有している農家は少なく、すべて人手をかけて、田の畔つくりからしろかき、苗代作り、田植え、田の草取り、稲刈りなどを行なっていた。結(え)と呼ばれた集落の人々の助け合いの中で、おいしい米作りをしていたのである。山の斜面の田んぼなので、機械も入りにくかったのだ。また、田んぼは水周りの管理が重要で、農業用水の配分にも気を遣った。

 

山間部の水田は、平野部の田んぼと違って深かった。腰まである長靴を履いて田んぼに入ると膝上まで泥につかるというのが当たり前であった。稲は、柔らかい泥に支えられて根っこをちゃんと張れるので、倒れにくく、じょうぶに育ち、結果としておいしいお米を収穫できるのである。

 

子どもの頃は、よく田植えや稲刈りを手伝ったものだ。当時の小学校には、田植え休み、稲刈り休みという学校の授業が休みの期間があった。それぞれ3-4日程度ではあったが。というのも、この時期は、前に書いたように人手が絶対に必要なのである。天候や稲の育ち具合からいっせいに行う必要かあったのだ。

 

稲刈りは、刈り取った稲を束ねて縛り、それを「はさば」(乾し場)と呼ばれるところに運び、自然乾燥させる。風通しの良い高台にある杉の木などに連ねて稲わらでできた縄で稲束を掛けるところを作っておき、そこに刈り取った稲束を掛けて4-7日間くらい乾燥させるのである。

 

そして、稲穂の乾燥度合いを確認しながら、適度な状態にまで乾燥したら農家の作業場に運び、ようやく脱穀の作業となるのである。

 

刈り取った稲束を運ぶ作業は、背中に背負って田んぼから高台のはさばまで運ぶ。子どものころは、この作業が結構たいへんだった。幅50センチメートル程度の山道(急な登りの坂道が多い)を20分くらいかけて運ぶのである。それも何十回となく往復する。

 

おそらく、平野部の水田であれば、一輪車やリヤカーを使って運んだことだろうが、山の斜面ではそうはいかない。すべて人手にたよらざるを得ないのである。

 

稲を乾燥させるためのはさかけの作業も、3-4メートルくらいの高さののところにいる人に向けて稲束を一束ずつ投げあげる、そしてその位置の縄にまたがせてもらうのだ。乾燥した稲束を集めて作業場へ運ぶのも人手で、背中に背負って高台のはさばから作業場まで運ぶ。

 

いま考えると、当時はたいへんな作業をよくやっていたとおもう。このような苦労を積み重ねておいしいお米ができるのである。いまは、農村の機械化も進み、狭い棚田も耕地整理されて広くなり、作業性も良くなったときいている。しかし、農家の手塩にかけて育てたおいしいお米には、多くの苦労と努力が込められているのだ、ということを知ってほしいと願っている。

 

(2008-11-3)

 

ぶな林と「ふるさと」

先日の読売新聞(2008年9月13日)に、トレッキングルート「信越トレイル」が開通したという記事がでていた。

 

新潟県と長野県の県境にある関田山脈の稜線を、斑尾山から牧峠を経て天水山に抜ける全長80kmのコースだそうである。標高1000メートル前後の稜線づたいに、いくつもの峠を通過する。掲載された写真には、ぶな林の中を山歩きする人々の楽しそうな姿が紹介されていた。

 

ぶな林には、想い出がある。ちょうどこのコースの途中に、関田峠がある。その新潟県側では、冬にたいへんたくさんの雪が積もる。6メートルにも達することがあると聞いたことがある。

 

私がこどものころ、小学校の遠足でこの関田峠の近くのぶな林に行ったことがある。水源地が、林の中にあり、冷たい水が湧き出ている。指を入れるととても冷たい、こごえそうな感触をはっきりと覚えている。

 

そんなふるさとのぶな林を想いだしてしまった。

 

いま、関田峠を少し下ったところは、牧場として開拓され、光が原高原として知られている。「浅間山荘」事件を扱った映画のロケ地でもある。そこからは、日本海が、また天候にもよるが佐渡が見える。眺めは最高である。冬は雪のため、閉鎖されてしまうが、夏は多くの人々が訪れる。

 

ぶな林の中に、キャンプ場やロッジがあり、自然の豊かさを実感できるのだ。私もなかなかいけないが、ぜひ一度、見て足を運んでほしい場所である。

 

関田峠の付近より、光が原高原、遠く日本海を望む。近くにはぶなの木が見える。(このあたりも冬は雪に閉ざされる。)

 

(2008-9-23)

 

  • 日記
帰 省

このところ、田舎に帰省するのはほぼ一年に一回、夏のお盆の前後にお墓参りにいくくらいであり、なかなかいけなかった。高校卒業後、関東地方で生活の居を構え、暮らしていると、なかなか動けないものである。(いままで、仕事が多忙だったからでもある。と言い訳していた。)

 

ところで、帰省した折に必ず立ち寄るのが親戚の家だが、そこでは地域のいろんな話が話題として上がる。その中でも、集落の人口減、老人所帯の増加にどうしても話がいってしまう。

 

私の出身の集落では、私が小学校の時代には四十数戸あった所帯も、いまでは十七戸と聞く。集落の半数以上が減少している。また、四十歳代以下の若者のいる所帯はわずか四戸だとのこと。十七戸と少ない集落ではあるが、それにしてもここまで少ないとは。農山村の過疎化の現実がここにある。自省も込めてだが、かくいう我が家も減少した内に数えられるのだ。いま、宅地、墓地は別としても、農地が荒廃している。誰も手を出せない。まして、地すべり地帯の農地(田畑)であるので、境界すらわかりにくくなっている。いつかきちんと整理しなければいけない、そう思いながらなかなか手をつけられないでいる。地域活性化とよく言われるが、いったいどうしたらいいのか、具体的な計画と行動がよく見えないのだ。

 

 

ときたま、国会図書館に行く機会がある。時間のあるときに、「郷土誌」を借り出して眺めている。そこには、私が知らなかったふるさとの自然・地理・地勢・歴史が記されている。資料編には、私の祖父や曽祖父の名前も載っているのだ。

 

しかし、三十数年前と違い、交通機関も発達し、時間的にも距離的にも近くなってきたように感じる。

いま、北陸新幹線の工事中と聞く。これが完成すれば、東京から二時間あまりで上越に行ける。なので、もっともっと距離は縮まり、できることも増えてくるのではないかと、ひそかに期待している。

 

(2008-2-24)

 

  • 体験
雪にまつわる想い出

(昭和59年の大雪、新潟県妙高市にて)

 

二月三日、関東地方には久しぶりに積雪があった。こちらで白い雪景色を見るのはめずらしくはないが、雪を見ると思い出すのが、田舎にすんでいた幼少期から小学生くらいの頃に経験した大雪である。

 

雪は一晩で七十から百二十センチメートルは積もった。朝起きてみると玄関先が既に雪でふさがれていたことをよく覚えている。当時は、家の前の道路も舗装されていなくて、集落から集落の間は人が通れるように、朝早くからかんじきを履いて道付けを交替で行なっていたものだ。そうしないと、道が確保できないし、小学校へも通えなくなってしまう。

 

何年か経ち、やがて道路が舗装され雪が積もってもブルドーザーで雪かきをしてもらえるようになった。ところが、ブルドーザーの通った後は、キャタビラの跡がすべりやすく、何度も転倒しそうになったものである。そればかりか、雪の壁が家の玄関前にできるので、雪かきをし、背丈以上もある高い雪の壁をくり抜き、通路を確保する必要があった。

 

そういえば屋根の雪降ろしも一冬に六回は行なったものだ。屋根の上には百五十センチメートルくらいの高さで雪が積もっている。それをスコ(スコップ、シャベル)で下に落とす(放り投げる)のである。屋根の雪の上層部はやわらかで軽いが、下はザラメ雪(シャーベット状)でとても重い。それをすくって投げ飛ばすのだから、一日もすれば重労働であった。さらに家の周りに落とした雪は、窓を塞ぎ、家の中を暗くしてしまう。

 

また、不均一に雪に囲まれていると、家そのものがゆがみ、倒壊する危険もあった。なので、落とした雪を平らに均して家の明かりを採り、家の外回りをしっかりと踏み固めるという作業を必要とした。

 

雪を見ると昔を想いだす。寒さはどこも同じ。手がかじかむ感覚は、スキーを担いで登下校した小中学校の頃にいやというほど味わっている。なので、いま関東地方に住んでいて、多少の雪が降っても、寒くても、当時の辛さを思い出せばなんのことはない。

雪にまつわる想い出のひとつである。

 

(2008-2-24)

 

  • 体験
小学校のこと

私が6歳から12歳まで通った小学校がことし(2004年)の3月で閉鎖されることになったそうです。先日、閉校記念碑を建立するための寄付金のお願い文書が自宅に届きました。

 

十数年前から複式学級になっていることは知っていましたが、時代の移り変わりを感じます。

 

いまの児童数は17名で、廃校後は一番近い小学校に通学することになるそうです。私が子供の頃、自宅から小学校まで子供の足でおよそ30分くらいかかって通学していました。今度はもっとかかるとおもうのですが、いまの時代てすからおそらくバスなどで通学するようになるのだとおもいます。

 

小学校には思い出がたくさんあります。最近ではめったにできない学校行事として、たけのこ狩り、スキー遠足、スキー大会がありました。

 

 

たけのこ狩りは5月ごろ、山の中へ調理用具一式とご飯、必要なたまごやジャガイモなどを持ち込み、まず午前中はたけのこを取りに山の中にはいっていきます。児童と引率の先生や父兄の人数に十分な量のたけのこ(山竹ですので細く小柄)が採れたら、その皮むきをし、味噌汁をつくります。その場で昼食にたけのこ汁をいただき、かたづけて帰ってくるといった具合です。

 

大きななべをもっていく子、まな板を持っていく子、飯盒を持っていく子、など、分担して一日を過ごしました。

 

スキー大会は、小学校のすぐ裏山で、行います。運動会のようなものです。

 

スキー遠足は、先生がひとクラス(約45人)の児童を引率して、山から山へみんなで移動します。全員がスキーを履いて、先生に着いていくわけです。およそ10キロメートルくらいを一日でまわります。また、そのときにプロの猟師をふたりくらい雇って、うさぎ狩りをします。

 

うさぎの足跡は非常に特徴的で雪の上にくっきりとついていますので、どのあたりにウサギがひそんでいるかすぐわかります。猟師が仕掛けたわなをチェックしたり、姿を見つけると鉄砲で打ってつかまえます。つかまえたうさぎを、小学校に持ち帰り、調理しウサギ汁にしてみんなで食べたこともありました。当時は食肉が不足していましたので、こういったものは貴重なカロリー源として、山の人たちに重用されていたのでしょう。

 

もちろん、現在では、食肉はいろんな流通ルートではいってきますから、当時のウサギ狩りのようなことはおそらく小学校でも行ってはいないとおもいます。

 

私が小学校のころに体験したなつかしい貴重な思い出です。

 

(2004-2-21)