タグ:勝山一義
  • 2018/06/18

    特集

    會津八一(あいづやいち、会津八一)は、東洋美術の研究者であり、早稲田大学における芸術学研究の基礎を築いた人物です。自らを秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔郎(...

  • 2015/05/20

    日記

    勝山一義先生のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみを申しあげます。私どもが有恒高校の二年のときに世界史の授業をして下さり、生徒会の顧問として数々のご指導をいただいた...

  • 2014/01/03

    特集

    いまでも色褪せない文豪・夏目漱石の名作『坊っちやん』。無鉄砲ではあるが、正義感あふれる坊っちやんが、四国の松山の中学校に数学教師として赴任することになり、生徒や...

  • 2009/09/19

    特集

    文豪・夏目漱石の名作である「坊っちゃん」。その中でもっとも魅せられ、生き生きとした主人公の「おれ」は、どのようにして生まれたのか。漱石は、この作品を通じて、読者...

會津八一の英文書簡

 

會津八一(あいづ やいち、会津八一)は、東洋美術の研究者であり、早稲田大学における芸術学研究の基礎を築いた人物です。自らを秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔郎(はっさくろう)などと号され、さまざまな作品を世に残したことで知られています。

 

明治14年(1881年)新潟市の生まれで、早稲田大学文学科を明治39年卒業後、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に英語教師として赴任され、明治43年に坪内逍遙から呼ばれて早稲田中学校に転職するまでの4年間、有恒学舎で増村朴齋先生のもと、教鞭をとっておられました。

 

この間に、数々の作品を残されています。新潟県の地元の新聞「新潟日報」の題字にも會津八一の書が使われています。有恒高等学校に隣接する朴齋記念館には、いまでも多数の書軸や風刺画、資料が展示されています。

 

先日、朴齋記念館を見学する機会をいただいたのですが、そのとき、會津八一の英文書簡が目に留まりました。我々の有恒高校時代の恩師である勝山一義先生が所蔵され、同館に寄贈されたものだそうです。

 

本稿では、この全文を資料として公開したいとおもいます。明治42年(1909年)12月26日の日付で、大阪毎日新聞社の編集局の伊達俊光氏にあてたものです。

 

→   會津八一の英文書簡 (Photos)

 

會津八一は英語の教師でした。当時はまだ英語を理解する一般人は少なかったので、内容を他人に知られないようにと英文で書簡をしたためたのでしょうか。謎です。

 

 

========== ここから ==========

 

 

Harimura, 26 December 42th year of Meiji

 

Dear Toshimitsu:

 

Last night I received a card from you bearing a small caricature on it. You succeeded to make me smile once more, as you had eupeated, but I am going to tell you that I was more interested with the readleations which the picture caused to me than with the bitterness of it. Do you know the person at relation between Fumiko and Hakutei ? Provably not. More than six years ago the former was living at Yanaka and Fumiko was introduced to me, and since then I ealled on them several times.

 

針村にて、明治42年12月26日

 

親愛なる俊光様:

 

昨夜、私はあなたから小さな風刺画が描かれているカードを受け取りました。あなたが偽ったように、あなたはもう一度私を笑顔にすることに成功しました。しかし、私はあなたに、その絵が私にもたらした読書とともに、その苦味とともに、より興味があったことを申し上げようとしています。あなたはフミコとハクテイの間の関係人物を知っていますか?おそらく知らないでしょう。6年以上前に、その人物はヤナカに住んでいて、フミコを私に紹介してくれたのです。それ以来、私は彼らを何回か呼びました。
———-

 

 

One day, when Shiisan was not at home, I was alone with Fumiko a little while in their
study. At that time she was a lovely girl of bushful eighteen and we both were talking about something or other in such a manner as young folks will do when left alone by themselves. Endless was our conversation and suddenly she opened her study window angrily and pointed to a small house standing next to her’s. “There lives a very unkind man there, sir,” she whispered. “Who lives here ?” “You know a young painter Hakutei don’t you, sir ?” she replied, “He lives there and calls us, Shiisan and myself, two devils, whenever he may see our faces.

 

ある日、シーサンが家にいない時、私はひとりきりで、彼らが勉強しているあいだ少しだけフミコといました。その時、彼女は18歳の美しい女の子でした。若者たちが彼らによって置き去りにされたときのように、私たちはなにかに関してまたは他のものに関して語り合っていました。私たちの会話は終わりなく、突然彼女は彼女の勉強の窓を怒って開き、小さな彼女の隣に立っている家を指さしました。「そこには非常に不親切な男が住んでいます。」と彼女はささやきました。「そこには誰が住んでいるの?」「あなたは若い画家のハクテイを知っているでしょう?」と彼女は答えました。「彼はそこに住んでいて、私たち、シーサンと私、二つの悪魔、彼が私たちの顔を見るかもしれないときはいつでも呼び出すのです。
———-

 

 

Sometimes he comes out with his sketch book in hand, but as soon as he notice that our
study windows are opened, he hastens away into his house crying ‘Devils are peeping !'” Fumiko told me more of him, and I listened to idle speech smiling meaninglessly as you may suppose. Dear Toshimitsu ! Seven years have passed away like a dream, and the attitude with which Hakutei treat her in all the same. And as ourselves, I am alot to call her a devil rather than an angel and it will be most provably the case with her toward her old love.

 

ときどき彼はスケッチブックを手にして現れます。しかし、私たちの勉強の窓が開かれたことを通知してまもなく、彼は『悪魔が覗き見している!』と泣きながら家の中へ入ってしまいます。」フミコは私に彼のことをもっと話してくれました。私は、あなたが想像するように、アイドルスピーチを意味もなく笑いながら聞きました。親愛なる俊光様、7年が夢のように過ぎ去りました。ハクテイが彼女を取り扱う態度もすべて同じです。そして、我々自身のように、私は彼女を天使ではなくむしろ悪魔と呼びます。彼女が彼女の昔の愛に向かっていく場合がもっとも確からしいでしょう。
———-

 

 

The idea of all his made me smile last night at the first glance of the caricature. I have to tell you that a letter from my cousin came to me also. It was an invitation to go over to Tokyo and stay at her home during this vacation. It is a long time since I saw her last and she tells me in the letter that she also want to see me and to talk of things gone by. But I will not do so. Yesterday it was Christmas and you complaint of the season was bitter enough to make me smile, as bitter as wormwood in the Revelation. Now it is your turn to read this sweet letter, as sweet as honey, and smile with Mr.Kakuda over your editorial tables.

 

彼のすべてのアイデアは昨晩、風刺画の最初の一見で、私に微笑みを与えました。私はあなたに、私のいとこからの手紙もまた私にやって来たと伝えなければなりません。それは、東京に行って彼女の自宅でこの休暇中滞在するように、との招待状でした。私が最後に彼女に会ってから長い時間が経ちました。彼女もまた私に会いたい、そして、過ぎ去ったことを話したい、との手紙で私に告げます。しかし私はそうしないつもりです。昨日はクリスマスでした。季節の苦しみは私を笑顔にさせるほど苦いものでした。黙示録のぼんやりとした苦しみのように。さあ、今度はあなたがこの、蜂蜜と同じくらい、甘い手紙を読み、そしてあなたの編集机のむこうのカクダさんと一緒に笑う番です。
———-

 

 

Snow is falling without ceasing these three days, and it is two feet and a half deep on the ground. Please remember me & Mr.Kakuda. I remain yours very affectionately.
‘Hassakuro’.

 

P.S. I will write an essay on the “Heimatkunst” of Echigo this afternoon. I am always stundy Norseman. Many thanks for your kind introduction of Mr.Tokutomi’s latest work. I will soon have and read it.

 

この3日間、止むことなく雪が降っています。それは地面から2フィート半の深さです。私とカクダさんを覚えておいてください。私はあなたのご親切を忘れません。
八朔郎。

 

P.S.私は越後の “Heimatkunst”(地域の芸術)のエッセイを午後に書くつもりです。私はいつも奇抜な騎士です。トクトミさんの最近の仕事のご紹介に感謝します。私はすぐにそれを得て読むつもりです。
———-

 

 

大阪毎日新聞社 編輯局内 伊達俊光様

 

(明治42年) 12月26日 越後針村 會津八一

 

========== ここまで ==========

 

 

會津八一(あいづ やいち)  明治14年(1881)〜昭和31年(1956)

 

新潟市古町生まれ。明治39年早稲田大学文学科卒業後、新潟県上越市(旧板倉の有恒学舎=現県立有恒高校)の英語教師に。43年有恒学舎を辞し早稲田中学校に転職。大正7年早稲田中学校教頭に就任。大正15年から昭和25年ころまで頻繁に奈良へ旅行する。大正13年歌集「南京新唱」刊行。大正15年から早稲田大学で東洋美術史の講座を担当。昭和6年に早稲田大学文学部教授に。昭和8年「法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究」を執筆し、翌9年文学博士に。同15年歌集「鹿鳴集」、17年随筆「渾斎随筆」、19年歌集「山光集」を刊行。秋艸道人(しゅうそうどうじん)、渾斎(こんさい)、八朔郎(はっさくろう)などと号した。昭和20年空襲により被災し新潟に帰郷。同22年歌集「寒燈集」、書画図録「遊神帖」を刊行。同26年新潟市名誉市民第一号に。同年「會津八一全歌集」を刊行、読売文学賞受賞。同28年宮中歌会始の召人として隣席。同31年死去、享年75。

 

(2018-6-18)

 

 

 

  • 日記
勝山一義先生ご逝去

勝山一義先生のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみを申しあげます。
私どもが有恒高校の二年のときに世界史の授業をして下さり、生徒会の顧問として数々のご指導をいただいたこと、また、近年では、私ども有恒高校昭和46年卒業の有志で発行している文集「雪駄」にご寄稿いただき、活動を激励いただいたことなどが、いまでも思い出されます。本当に感謝しております。
安らかなるご冥福を心からお祈りいたします。

 

勝山一義先生より文集「雪駄」にご寄稿いただいた作品をここに紹介させていただきます。

 

・「小説『坊っちやん』誕生秘話」を出版して

・校歌の意味

→  PDFファイル ( katsuyama.pdf )

 

 

(2015-5-20)

 

  • 特集
「続・小説『坊っちやん』誕生秘話」

いまでも色褪せない文豪・夏目漱石の名作『坊っちやん』。無鉄砲ではあるが、正義感あふれる坊っちやんが、四国の松山の中学校に数学教師として赴任することになり、生徒や教員たちとの人間関係に真正面から挑んで行く。夏目漱石の作品の中でも、特に人々に愛されている名作である。

 

夏目漱石がこの小説で書きたかったことはなにか。なにを表現しようとしたのか。

 

我々の母校で教鞭をとられた後、新潟県内の高校の学校長、関根学園の校長などを歴任された勝山一義先生が、この研究を長年続けられ、2009年に「小説『坊っちやん』誕生秘話」として、『坊っちやん』のモデル論に一石を投ずる文学研究書を出版されたことは記憶に新しい。

 

このほど、その続編ともいえる「続・小説『坊っちやん』誕生秘話」が出版された。前作以降の研究過程で新たに発見された事実を、明治初期という時代背景とともに考察し、解き明かしていく、まさに謎解きの旅への誘いの書である。

 

勝山先生が関根学園校長として赴任されていたある日、早稲田の2年の時に「坊っちやんのモデルは関根萬司(関根学園の創始者)であり、それを漱石に紹介したのは新潟商業高校を出た堀川三四郎である」という本を読まれたということを突然思いだされたそうだ。新潟商業高校と関根学園の両校の校長を歴任して縁がある自分が解明しなければならないという天命を感じられたそうである。そして、前作の「小説『坊っちやん』誕生秘話」を出版されたのであった。

 

前作では、「坊っちやん」のモデルとされた関根萬司と堀川三四郎の足跡をたどり、さまざまな仮説をたて検証している。そこでは、

 

・夏目金之助は、堀川三四郎が角田の中学校に赴任する時から辞任した後まで世話をしていた
・松山に着いた「おれ」が「赤シャツ」と「山嵐」の対立の間で揺れ動く描写は、堀川三四郎が角田の中学校の紛争で経験したこと
・婆や「清」は佐藤亀世からの創出
・画学の吉川先生は視学官野田藤馬
・マドンナは石川絢(あや)(三四郎夫人)
・「うらなり」のモデルも三四郎
・物理学校を卒業するまでの「おれ」は、松山へ赴任した「おれ」の前任者
・「坊っちゃん」という題名は関根萬司のニックネーム

 

などが紹介されている。

 

その後、松山での「おれ」は新潟商業学校(現、新潟商業高校)を卒業して東大で漱石の教え子第一号となった堀川三四郎であったこと、「山嵐」は宮城県の角田中学校の教師で塩田弓吉という人物であったこと、が新たに判明したという。

 

続編ともいえる「続・小説『坊っちやん』誕生秘話」では、この塩田弓吉にひとつの焦点があてられている。

 

小説『坊っちやん」の主な登場人物は、ほとんど九割方、角田中学校およびその周辺に実在していたのに、「山嵐」のモデルが見当たらないのは不思議だ。小説の中でもっとも魅力的な人物だ。きっと教師の中に「山嵐」のモデルとなった人物がいるに違いない、と勝山先生は考証され、塩田弓吉教諭を発見したのである。

 

小説『坊っちやん」は、夏目漱石が教え子である堀川三四郎から聞いた日露戦争のころの宮城県角田中学校の話を、漱石自身が10年前の明治28年に一年間勤務した松山を舞台にして書いたもの、ということだが、夏目漱石がこの小説で書きたかった中心部分はなにか。そして、塩田弓吉の名が長年伏せられていた理由はなにか。漱石は、日露戦争前後の日本の情勢に深い憂慮を抱いていた。そして、それを小説で表現しようとしたのかもしれない。このあたりは、きっと知りたくなるに違いない。

 

 

続・小説『坊っちやん』誕生秘話 勝山一義

自費出版 [制作: たかだ越書林 (上越市昭和町2-25-29 / 025-524-5531) ]

(自費出版のため、書店では取り扱っていません。ご希望の方は、このサイトの管理者までメールでご連絡下さい。詳細を返信させていただきます。頒価1,500円です。)

 

この前作は、

 

小説『坊っちやん』誕生秘話 勝山一義

文芸社 (新宿区新宿1-10-1 / 03-5359-2299)

小説『坊っちゃん』誕生秘話

 

 

関連記事

 

「小説『坊っちゃん』誕生秘話」

 

 


(追記)

 

著者の勝山一義先生のご家族の方が詳しい解説をされています。ご参考まで。

 

→ http://bocchanhiwa.jimdo.com/

 

→ http://katsuyama-shin.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html

 

 

  • 特集
「小説『坊っちゃん』誕生秘話」

文豪・夏目漱石の名作である「坊っちゃん」。その中でもっとも魅せられ、生き生きとした主人公の「おれ」は、どのようにして生まれたのか。漱石は、この作品を通じて、読者に何を語り、表現しようとしたのか。

 

これらの一端を解き明かすべく、このほど一冊の本が出版された。著者は、我々の母校で教鞭をとられたこともあるK先生である。

 

我々が高校2年のときに、社会科の世界史をユニークな方法で教えていただいたK先生のことは、以前に紹介させていただいた (「高校「世界史」の授業」を参照下さい。) が、人の縁とは不思議なものである。K先生は、我々の母校で教鞭をとられた後、新潟県内の高校の学校長、関根学園の校長などを歴任された。

 

K先生が関根学園校長として赴任していたある日、早稲田の2年の時に「坊っちゃんのモデルは関根萬司であり、それを漱石に紹介したのは新潟商業高校を出た堀川三四郎である」という本を読まれたということを突然思いだされたそうだ。両校の校長を歴任して縁がある自分が解明しなければならないという天命を感じられたそうである。そして、今日まで調査研究された集大成が、この「小説『坊っちゃん』誕生秘話」である。

 

小説『坊っちゃん』誕生秘話

モデルとされた関根萬司と堀川三四郎の足跡をたどり、さまざまな仮説をたて、検証していく貴重な文学研究の書である。たとえば、仮説として、

 

・夏目金之助は、堀川三四郎が角田の中学校に赴任する時から辞任した後まで世話をしていた

・松山に着いた「おれ」が「赤シャツ」と「山嵐」の対立の間で揺れ動く描写は、堀川三四郎が角田の中学校の紛争で経験したこと

・婆や「清」は佐藤亀世からの創出

・画学の吉川先生は視学官野田藤馬

・マドンナは石川絢(あや)(三四郎夫人)

・「うらなり」のモデルも●●●

・「坊っちゃん」という題名は関根萬司のニックネーム

 

などが紹介されている。

 

我々にはなじみの地名などもででくるので懐かしくなる。

 

ご興味おありの方は、書店またはこちらで入手できる。

 

(2009-9-19)

 

 

勝山一義「小説『坊っちゃん』誕生秘話」

文芸社 (新宿区新宿1-10-1 / 03-5359-2299)

 

—–
COMMENT:
AUTHOR: 関根則男
EMAIL: spb25ny9@festa.ocn.ne.jp
IP: 210.20.13.133
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/lax3140/33033332.html
DATE: 09/27/2009 22:03:34
今晩は、私のプログ記事「我が先祖は「坊っちゃん」のモデル?・・関根萬司」にトラックバックいただきありがとうございました。K先生のお知り合いの方でいらっしゃったのですね。K先生何度か私の実家を訪問いただいたようです。該書籍の中で小生の手紙の内容を「○○○○氏の研究」として掲載されています。(無断ですけど・・・笑)
—–
COMMENT:
AUTHOR: ふる
EMAIL: m@m
IP: 221.119.0.185
URL:
DATE: 09/29/2009 07:52:23
ご来訪いただきありがとうございます。K先生のご出身のY高校の東京地区同窓会の会長さんから、今回の著書のご紹介をいただきましたので、本サイトにて簡単に紹介させていただきました。